植物のEndocytosis 発見 余話
今月号の雑誌「文芸春秋」に、ノーベル医学生理学賞を受賞された坂口志文(さかぐちしもん)さんのインタビュー記事が載っている。その中で、彼が若いときに国際学会に出席する費用がなかったので、だから
学会には「こういう研究をしていますよ」という抄録だけ提出して、現地に行かないという横着をしていました。いつしかついたあだ名は「ファントム(幽霊)。論文は出てくるけど、本人を誰も見たことがない幽霊みたいなやつだというんですね(笑)
という話が開陳されている。
この話を読んでいきなり小生の昔に思いがよみがえった。
小生も1970年代だったと思うが、J Cell Biologyの学会に、抄録だけ出して、お金がなくて出席できないことが一度だけあったのだ。(そのぶ厚かった講演要旨集も、整理が悪くて今ではどこかに紛れて探せなくなっているのだが)
当時、東大医学部解剖学教室の湯本昌(さかえ)助手は、医学部本館での最初の電子顕微鏡導入者で、小生は彼の研究を手伝っていた。de Duveが細胞内顆粒であるLysosomeを発見してノーベル賞を獲得した時期である。湯本さんはこの研究に強く触発されていた。
ラッテの脳のライソゾームを超遠心分画してそれを顕微鏡で観察すると同時に金属分析を行っていた。彼がアルツハイマー病原因のアルミニウム説を提唱し始めたころである。
小生は、夜型の彼が電子顕微鏡観察をするのに時々付き合っていた。小生も電子顕微鏡は東大農学部で観察していたのだが、真空ポンプの低周波に弱くていつも撮影に失敗ばかりしていた。
そこである時、卵白アルブミンで水耕栽培した水稲の根を常法で固定包埋した超薄切片を、湯本さんの電顕観察のマシンタイムにむりやり入れてもらって、彼に丁寧に観察してもらったことがあった。
暗室の中で一緒に観察していると、なんと、細胞膜が細胞質側にくびれこんでいるInvaginationの像が見事に観察されたのである。小生は「すごーい!」と大声を出して、飛び上がって喜んだのだが、湯本さんはラッテの細胞内Lysozomeでそのような現象を電顕像として頻繁に観察していたので、あまり植物でのその意義の重要性がわからなかったようであった。
この発見が植物では今では常識になっている、Endocytosisの最初の発見であることは、今でも全く知られていない思う。
ちょうど翌年に J Cell Biology の学会が予定されていたので、小生は湯本さんと連名で英文抄録送って、分厚い抄録集にはそれが掲載された。坂口志文さんの場合のように当時外貨が高くて一ドル360円もしたので、渡航資金がなかったのでトロント(?)の学会には出席できなかった。
今では研究の詳細は忘れたが、別の本命の湯本さんの研究では、分刻みのRI標識化合物のLysozomeへの取り込み実験は小生が手伝ったのであった。お金のある湯本先生は、そのデータを引っ提げて、学会の現場に意気揚々とでかけたのであった。
実に慎重で、論文執筆が遅筆である湯本先生の論文は、様々な金属分析のデータを追加して、その約5年後に J Cell Biology に掲載されて、アルツハイマー病のアルミ起源説の代表論文として現在も世界に名を馳せている。
小生はその後のl10年間は、西澤直子さんと一緒にこの植物細胞による Invagination (いまでは Endocytosis で統一されている)研究を続けて、Plant Cell Physiology や Soil Science and Plant Nutritionに数報投稿した。筆頭著者はすべてNaoko Nishizawa である。
小生は、学生たちと、ひたすらに、イネや大麦を各種アミノ酸やアルブミンやヘモグロビンを唯一窒素源として水耕栽培したり、125-Iや3Hのタンパク質の合成をしたりの肉体労働をしたのだった。
西澤さんの電顕技術は群を抜いていた。電顕的ラジオオートグラフの卓抜な映像で、小生が合成したトリチウム(3H)標識ヘモグロビンが細胞外から細胞内液胞に取り込まれた電顕的ラジオオートグラフの図は、高等植物の根が高分子であるたんぱく質をそのまま取り込んだという、植物養分吸収上の白眉の証明であった。
西澤さんはこの一連の研究で、「日本土壌肥料学会賞」を受賞している。
この授賞式の時の飲み会で、三輪睿太郎さん(後の農林技術会議の会長を長く務めた、農芸化学科の一年後輩)は「森さん、後輩の西澤さんに受賞を先に越されて悔しくないかい?」と揶揄された。
しかし当時は全くそんな感情は抱かなかった。なぜなら東京大学の学園闘争の後では、我々の世代はだれもが、いわゆる「名誉」や「出世」を否定していたからである。
(森敏)
以上の同じ話は、WINEPブログにも
「植物のEndocytosis 発見」秘話
として掲載しています。